「新しい釣漁業の技術」山下楠太郎
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諸島沖の鮪延細に出漁中、青ヶ島(昔は鬼ケ島)の付近で難波してしまい、船長(次兄良吉)はじめ皆んところで私が、何故擬餌に興味を持ち、何故、漁餌の製造考案改良に着手するようになったか、お話してみましょう。丁度、大正元年の頃でした。私の家は三重県の阿曾浦という所で、今でこそ真珠の養殖で知られていますが、その当時はカツオの竿釣や、近海のマグロの延細の船が根拠地としていました。カツオの竿釣マグロの延細では土佐の漁船にも負けない腕と自信をもっていたものです。そうした中で私の家もマグロ船やカシオ船の経営をしていて、私の兄弟達も皆んな漁朔長や船長で漁を競い、成果を喜び合ったものでした。しかし私達八人のきょうだい(女は一人)は何時も自分の漁の秘密や、漁場の場所等一般の漁師が、親にも言わない、漁師の秘伝というものを話し合い、男の兄弟七人が常に漁について研究し改良し合ったものでした。そのために何時も漁獲は他の人々より多く、優賞旗は誰にも渡したことがありませんでした。こうした中に私の家の船で万栄丸というのが伊豆三重県阿曽浦里62

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